2009年06月29日

ルイスの価電子理論では

ルイスの価電子理論では価電子の性質として次のように述べている。

各原子は電子殻を有し、(多くの場合)電子殻に存在する価電子の最大数は8である。
結合している原子同士は電子対を移動させることで価電子を共有する。すなわち、この場合の電子は対をなして移動する。
ルイスは価電子理論をボーアの電子モデルとは独立して提唱している(ルイス自身は価電子理論の論文でボーア・モデルに対して否定的な見解を示している)。
あわせてルイスは化合物における価電子の共有状態を現すために、ルイスの電子式(ルイス化学式)を提案している。すなわち化合物の原子を結合している物同士が隣接するように配置し、共有している価電子を該当する元素記号の間隙の二つの点で表現する図式である。ルイス化学式は価電子論の表現形なので1つの元素記号の周囲の点の数の最大値は8になる。また、ルイスが指摘しているように二つの原子の間の電子の共有は電子対を単位とするので、ルイス化学式においても共有されている電子は必ず対を形成している。
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ルイスは電子殻の概念を提唱はしているが、「なぜ電子殻を構成する価電子の最大数が8であるか」、「なぜ電子は対で動くのか」とか、「電子殻を共有するということがなぜ生ずるのか」という原因については説明しきれておらず、価電子の理論を仮説として有機電子論を構築している。

実際、これらの仮説の疑問に対する解答には量子化学的な化学結合の解釈が必要となる。例えば、電子殻の最大数は原子軌道の数で規定されており、そのために価電子の最大数が決定されている。また電子が対で動くのは、各原子軌道にはパウリの禁止律により最大2電子しか占有できず、フント則で示されているように軌道上に単独の電子が存在するよりも軌道上の電子対の方がエネルギー的に安定な為である。

2009年06月12日

福祉サービスの具体的内容

地域、障害の程度によって異なるため、詳細は住民票のある市区町村に確認のこと。

福祉機器(車椅子、義肢、装具、盲人安全つえその他多数)の交付
医療費(健康保険の自己負担分)助成(身体障害者手帳2級以上が対象)
所得税・住民税
障害者控除の適用
特別障害者(1級及び2級)の場合・所得税40万円、住民税の30万円の所得控除、
一般障害者(特別障害者以外)の場合・所得税27万円、住民税26万円の所得控除
マル優の利用が可能
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯

相続税
障害者控除の適用(過去に相続税の障害者控除の適用を受けた部分については適用なし)
特別障害者(1級及び2級)の場合・70歳に達するまでの年数に12万円を乗じた金額の税額控除
一般障害者(特別障害者以外)の場合・70歳に達するまでの年数に6万円を乗じた金額の税額控除
JR
JR以外の鉄道事業者の多くも、同様の割引制度を行っていることが多い。
第1種:介護人同伴の場合本人と介護人とも距離に関係なく普通乗車券、定期乗車券、回数乗車券、急行券が半額、本人単独の場合第2種扱いとなる。
第2種:本人のみ100km(営業キロ等)以上半額
民営のバス
第1種:本人、介護人ともに半額
第2種:本人のみ半額
タクシー
居住自治体が地元タクシーの割引券を交付することが多い。会社によっては障害者手帳の提示で料金を割り引くところもある。
公共施設
都道府県立施設や博物館・動物園などの公共施設の入場料が免除されたり割引されたりする。
自動車関連
特殊仕様車(福祉改造車両)の自動車税の減免、消費税の非課税
高速道路及び有料道路の通行料の割引
駐車禁止除外車両の指定(駐停車禁止区域以外の駐車が可能になる)
携帯電話
基本料金や通話料金等に割引。詳細は「携帯電話料金の障害者割引サービス」。
郵便事業株式会社(青い鳥郵便葉書の無償配布)
障害者手帳1級及び2級の場合くぼみ入り通常郵便葉書20枚を4月から5月に申請により配布

2009年06月07日

労働安全衛生規則に加えて

行政指導通達による保護帽の着用規定も存在する。
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S50.4.10 基発第218号 荷役、運搬機械の安全対策について
コンベヤ、フォークリフト、ショベルローダ、移動式クレーン、ダンプトラック等の機械を使用する作業
S60.2.19 基発第91号 「林業における刈払機使用に係る安全作業指針」
刈払機の刈刃破損、反発、および転倒による災害を防ぐ。
S60.4.5 基発第185号の3 ストラドルキャリアーによる労働災害の防止について
夜間にストラドルキャリヤーの稼動区域内で作業をさせる場合は、夜行塗料を塗布した保護帽を着用させる。
H5.3.2 基発第123号 清掃事業における総合的労働災害防止対策の推進について
ごみの積替え作業、焼却時の攪拌作業等。
H5.5.27 基発第337号の2 建設業における総合的労働災害防止対策の推進について
木造家屋建築工事等小規模建築工事における墜落、木造加工用機械、飛来・落下物による災害を防止するため。
H8.11.11 基発第660号の2 木造家屋等低層住宅建築工事における労働災害防止対策の推進について
高所作業に従事する作業者に対しては墜落用保護帽を着用させること。

2009年04月24日

パルチザン (独ソ戦)

パルチザン部隊とは、ソビエト連邦がモスクワ放送などで指揮した、共産主義のゲリラ部隊。ナチス・ドイツとの戦争中に結成されたのが起源とされている。
パルチザンはソ連政府によって調整・指揮され、赤軍を模範として作られた。パルチザンによって遂行されたゲリラ戦の第一目標はドイツ国防軍の後方、特に道路や線路など輸送機関の粉砕であった。

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1941年7月29日、人民委員会議および共産党が発した指令の内部でパルチザン活動に関する概略が述べられた。当初のパルチザン部隊は赤軍兵士および破壊大隊、地方の共産主義者、コムソモールおよびソビエト活動家によって構成され、ソ連の資料によると1941年夏の時点で231個の「派遣隊」がすでに活動しており、同年の終わりまでに437個が編成され7200人以上が従軍した。

ベラルーシ
ソ連はベラルーシを、密集した森林や沼沢地が多いこと、モスクワに繋がる道路や線路が集中していることからパルチザン活動が重要であると考え、「種子部隊」を派遣してバルバロッサ作戦の際に取り残された赤軍兵士と合流し、後方のかく乱を行ったが、戦線がさらに遠のくと支援が得にくくなり、1942年3月まで大規模な支援は得られなかった。

赤軍のラジオ放送は同年四月まで届かず、地元の人々の支持を得られなかったことが活動を困難にした。モスクワの戦いはパルチザン兵士の士気を高めたが、ベラルーシおよびドイツ占領地域全体におけるパルチザン運動の進歩の転換点は冬季大反攻の経過を待たなければならなかった。
1942年春、独ソ戦1年目の経験から派遣隊は旅団に統合され始めた。部隊の調整や増強、再構成、補給路の設立が行われてパルチザンの戦闘能力を高め、年末までに鉄道のサボタージュによって数百のエンジン、数千の車両が破壊された。この年、地域行政に対するテロ活動が目立ち、結果として住民のうち限定的な部分であったが地元民による反パルチザン部隊が編成された。同年11月までにパルチザン兵士の数は4万7千人に達した。

1943年1月の時点でパルチザン兵士5万6千人中1万1千人がベラルーシ西部で活動し、東部の人数より地元住民1万人につき3.5人少なかった。

ロシア
ブリャンスク方面において、パルチザンはドイツ軍の前線の後方で広大な領域を支配し、1942年の夏には面積1万4千平方キロメートル、人口20万人を掌握していた。ロシアのドイツ軍占領地ではアレクセイ・フョードロフ、アレクサンドル・サブロフらに率いられた6万人のパルチザンが活動し、ベルゴロド州、オリョール州、クルスク州、ノヴゴロド州、レニングラード州、プスコフ州、スモレンスク州などの地域で活発に動いた。オリョールとスモレンスクのパルチザンはドミトリー・ニコラエヴィッチ・メドヴェージェフに率いられていた。

1943年に赤軍がロシア西部とウクライナ北東部の解放を開始すると、フョードロフ、サブロフ、メドヴェージェフらはドイツ軍に占領されているウクライナ中部・西部に移動してパルチザン活動を続けるよう命令された。


2009年04月06日

アイリッシュ・ダンス

アイリッシュ・ダンス(Irish dance)とは、アイルランドのダンスのこと。いろいろな種類がある。

アイリッシュ・ダンスは、ソシアル・ダンス(社交ダンス)とステップダンス(足のみで踊る)に分類できる。 さらに分けるとステップダンスにはシャン・ノースからオールドスタイルステップダンスと進化し、今では競技用のステップダンス(コンペティションダンス)の3種類のタイプがある。 一般的に知られるようになったのは本来のアイリッシュダンスではなく、競技用のステップダンスをベースにつくられたパフォーマンス用のダンスで1994年ユーロヴィジョンコンテストで披露されたパフォーマンス『Riverdance』が注目を浴び、その後本格的なショーとして世界を席巻。今ではアイリッシュダンスの代名詞となったが本来のアイリッシュダンスではショーダンスのように横一列に並んでステップを踏みならすことはしない。

ソシアル・ダンスはさらにケーリー・ダンス(céilí)とセット・ダンス(set)に分類することができる。どちらもカップル(男女一組)のセットで踊られ、通常、人数は4人から16人である。アイリッシュ・ソシアル・ダンスは現在まで続く伝統で、場所によって、修正が加えられたり、新しい振り付けが施されたり、さまざまなバリエーションがある。

競技ダンス(Irish stepdance)は、ライトダンス、へヴィダンスの二種類があり、シューズがそれぞれ異なる。 ライトダンスでは薄い牛革に編上げの紐のついたパンプシューズ、へヴィダンスではファイバーチップがつま先部分につき、バンドとヒールがある牛革靴であるへヴィシューズ(またはハードシューズ)に分かれる。 また、ソロで踊るものとグループで踊るものがある。基本は上半身を動かさず、足をのみでステップを踏むがグループで踊るものはショーダンスとは逆に音を出さないライトダンスのみしかなく、大体二人一組となって4?16人で上半身も使って踊る。

歴史 [編集]
おそらくアイリッシュ・ダンスの伝統は、アイルランド伝統音楽との密接な関係の中で発展したものと思われる。誕生はキリスト教が伝わる前で、後に、大陸のダンス形式、とりわけカドリーユから強い影響を受けた。遅くとも1900年代の初めには、旅回りのダンス・マスター(ダンシング・マスター)がアイルランド中に教えて回っていた。

シャン・ノース [編集]
アイリッシュ・ステップダンスの伝統は、アイルランドの伝統音楽と一緒に発展したパーカッシヴ・ダンス(打撃系ダンス)の固有の形式から成長した。この伝統の現在の代表がシャン・ノース(Sean-nós, damhsa ar an sean-nós, rince sa sean-nós)である。シャン・ノースの最も根強い伝統はアイルランド西部のコネマラのゲールタハトにあるが、シャン・ノースのダンサーはアイルランド中にいる。

シャン・ノースとはアイルランド語で「古いスタイル」「古いやり方」という意味で、文字通り、ソロ・ステップダンスの古い形式である。特徴としては、腕と上体の力を抜いた打撃的なステップ、床に近いステップ・ダンス、自己表現性、即興性、ステップと音楽の関係の強調などが挙げられる。ほとんどのシャン・ノース・ダンサーはミュージシャン1人と踊ることを好む。伴奏はメロディオンあるいはアコーディオンが人気がある。

シャン・ノースはアイリッシュ・ステップダンスの原型で家々やパブ、ケーリー(ダンスの集まり)といった場で踊られる。

シャン・ノースの最も大規模な集まりは、アイルランド語を祝って毎年催される「Oireachtas na Gaeilge」で見られ、この時にはシャン・ノースのダンスと歌の競技会も行われる。

オールド・スタイル・ステップダンス [編集]
シャン・ノースと関連はあるものの別系統のオールド・スタイル・ステップダンス(Old-Style Step Dance)は、旅回りのダンス・マスターによって、18世紀後期から19世紀にかけて発展し、その系統は現代まで脈々と続いている。

ダンス・マスターたちはソロ・ダンスとソシアル・ダンスの両方を様式化および変形した。具体的には、上体、腕、足の配置にルールを設けた。さらに、ダンサーたちに二度ステップを踏むこと(左足、そして右足)を指導した。オールド・スタイル・ステップダンスは、腕は固定するのではなく両側にだらりとさせて踊る。踊る場所は狭い場所。爪先でたてる打撃音のアクセントがある。

「ブラックバード」、「セント・パトリックス・デイ」、「ジョブ・オブ・ジャーニー・ワーク」など、伝統音楽の曲にソロおよびセット・ダンスのステップをダンス・マスターたちは振り付け、それは現在でも踏襲されている。

タジーン ドジョブ セキュア きり ポストマン ニアミス フェデ ラテックス ホトトギス フェー タイダイ ふうせん ベリル そばみち メントール カネロニ キャンドル ファンク ブッシェル チェチ シュロチ チンネ じゃぼ ジベレリン タイシ ふらの タンキニ レユニ クロスボ 鉄人 リッポン ティナド いささ トリップ とうみょ ロレック ストップ プラン テンス プロテオ ノクターン ハコネ ハートフル タヒチ まるも ダウン ウェブ ザンサス びゃっこ マフィン

2009年03月22日

レジンキャスト

レジンキャストとは、主として工業デザイン試作や歯科技工などの分野で用いられる合成樹脂の成型方法である。この技術は模型製造などにも転用されている。なお、もともとの「レジン resin」は「(松脂などの)天然樹脂」から転じて「樹脂」全般を意味する言葉であるが(熱可塑性の樹脂も含む)、日本ではそれよりはかなり狭い範囲(主として熱硬化性樹脂の意味)で用いられていることに注意を要す。
合成樹脂の成型方法としては、加熱すると液体になる熱可塑性樹脂を金型に高圧で流し込み冷却硬化させる射出成型を用いることが多い。この方法は大量生産に向くが、しかし金型の作成に費用がかかる・高温高圧を用いる成型設備が必要である、などの事情から少量生産には向かない。
レコーダ ケース チトク 時代の扉 僕達の舞台 フットホ セット リーダー ムーミン カーラ ヌーベ エンジェル ケーエフ マスメ ブラウ フェース コモン キモスタ スクハ プリン ユーロダ マリーナ ジョイント 天慶 シーザー ビブ シンプトン カラー ロケオ カザノ カラー レタッ サラマ トラン ロスタ マカラ グルプ アニメ クレス シーズンオ トンネル セリウ 楓の小舎 杜仲 サーチズミ ピース パラグ チポフ チョイス ムード

そこで、少量生産については、常温では液体で硬化剤を混合することで重合して固体となる熱硬化性樹脂を、シリコーンゴム型・プラスチック型・蝋型などに、常温常圧、あるいは射出成型と比べるとはるかに低い温度・低い圧力で流し込む「レジンキャスト」という技術が用いられる。この技術は、個々の成型物単位では射出成型とは比べものにならないほど高コストであるが、初期投資額をおさえることができるため、少量生産向きである。また、歯科技工用などの一品生産にも向いている。逆に大量生産にはまったく不向きである。これは自動化されている射出成形に対して注型作業に人手を要する事(しかもある程度の技術を要する)、型が注型樹脂に侵されるために寿命が極めて短い事などが理由である。

また、この技術は模型、特にガレージキットの分野にも導入されており、レジンキャスト法で製造されたガレージキット、および製造に用いる素材としての模型用無発泡ウレタン樹脂などを示す場合もある。

レジンキャストに使用される樹脂は、2液混合型のウレタン樹脂、エポキシ樹脂、不飽和ポリエステル樹脂などである。いずれも液体とはいえどもかなり粘性が高く流動性は良好ではない。そのため、揮発性の溶剤を混入させることで流動性を改善したものもある。


2009年03月07日

巡洋艦(じゅんようかん、cruiser)

巡洋艦(じゅんようかん、cruiser)の定義は年代によって異なる。英語のクルーザー(cruiser)は「遠洋を航海する船」を意味する。

電波による通信・索敵や安全保障ができなかった時代では、実物の艦船による示威・通信伝達・索敵・通商保護・通商破壊に使われる艦が必要であった。帆船時代にはこの目的に対しスループ・コルベット・フリゲートの艦種が設定されていた。これらの艦が汽走化され集約されて、巡洋艦となった。巡洋艦は名の通り遠洋航海能力や速力が求められており、明治時代後半以後第二次世界大戦の終了後まで、大砲を装備し戦艦より小さく駆逐艦より大きい高速な軍艦として定義されていた。

欧州での巡洋艦の目的は植民地で反乱が起きる事を防ぐ為に睨みを利かせることであった。停泊地で現地の名士を招いて船上パーティーが開かれるようにデッキは広く、前後の甲板が繋がっていた。

現在では巡洋艦に特に決まった定義はなく、その艦艇が所属する国家や社会集団が巡洋艦と主張したら巡洋艦となる。
そのため、2007年4月現在において世界最大の巡洋艦はロシア海軍所属の重航空巡洋艦アドミラル・クズネツォフ(基準排水量55000トン、実質的には航空母艦)である。

類似の用語に巡洋船・巡航艦・巡航船などもあるが、軍事用語・船舶用語における艦艇船舶の種類の定義としては厳密には区分されていない。英語圏で生まれたクルーザーという用語に、どういう日本語を当てはめるかの単なる用法上の違いによる程度の差異しかなく、一般的には同義語と捉えて差し支えない。

沿革
木造帆船時代
日本では明治維新直後までの時代。3本マストの日進や金剛(見た目は練習船日本丸に近い)が代表艦。

日本装甲コルベット金剛 (1879年英国製、2,250t:17cm砲3門、36cm魚雷発射管1門)

防護巡洋艦
艦体が鋼製になって以後、水線付近の甲板の鉄板を厚くし防御甲板とした艦種。また石炭庫を防御として用いる工夫を凝らしている。つまり装甲を持たず、限定的な防護しか備えていない巡洋艦の事である。日清戦争の主力艦吉野や第一次世界大戦のインド洋で単独で通商破壊戦を行ったドイツのエムデンが代表艦。

日本防護巡洋艦吉野 (1893年英国製、4,216t:15cm砲4門、36cm魚雷発射管5門)
ドイツ防護巡洋艦エムデン (1909年ドイツ製、3,650t:10.5cm砲10門、45cm魚雷発射管2門)

装甲巡洋艦
装甲を持たない防護巡洋艦に対して、(戦艦に比べれば限定的であるが)装甲を備えた巡洋艦のことを言う。遠洋を航海して通商破壊や通商保護を行う場合、敵艦との遭遇・交戦は避けられず、敵艦との撃ち合いによる損害に耐える艦が求められた。この要求に応えて、フランスで舷側に装甲板を張った世界初の装甲巡洋艦「デュピュイ・ド・ローム」が建造された。なお、アメリカ最初の戦艦とされるテキサスが、当初は装甲巡洋艦として建造されたことからもわかる通り、最初期においては戦艦と装甲巡洋艦の区別は曖昧であった。装甲巡洋艦はこの後拡大発展して、巡洋戦艦となった。

主に広く知られたものでは日露戦争で活躍した日本の出雲や、第一次世界大戦のフォークランド沖で英国巡洋戦艦に撃沈されたドイツ東洋艦隊旗艦シャルンホルストが代表艦。なお、現存するものとしてはギリシャの「イェロギオフ・アヴェロオフ」がある。

日本装甲巡洋艦出雲型 (1900年英国製、9,773t:20.3cm砲4門、45cm魚雷発射管4門)
ドイツ装甲巡洋艦シャルンホルスト (1907年、11,600t:20.3cm砲8門、45cm魚雷発射管4門)

軽巡洋艦 : 第一次世界大戦
防護巡洋艦から発展した艦種。燃焼効率の良い缶(ボイラー)を搭載して航続性能を上げ、機関をタービン化して高速化した。そのため缶は重油混焼ないし重油専焼形式となり、石炭庫を防護に使う防御方法は困難ないし不可能になり、舷側防御を若干強化した。

航洋性能が改善し艦隊行動が可能になったため、第一次大戦の初期から第二次大戦の初期まで、艦隊の目として活躍した。イギリスのアリシューザ級が軽巡洋艦の第1艦だが、不具合を改良するために順次、大型化していった。

イギリス アリシューザ級 (1914年、3,750t:15.2cm砲2門、10cm砲6門、53.3cm魚雷発射管4門)
イギリス カヴェンディッシュ級 (1919年、9,750t:19cm砲7門、53.3cm魚雷発射管4門)

ワシントン条約の制限
第一次世界大戦後の軍拡競争を終焉させたワシントン海軍軍縮条約(1922年)では主力艦(戦艦、巡洋戦艦)、航空母艦については排水量、建造数の制限が行われたが、それ以外の艦は基準排水量1万トン以下、備砲の口径は20.3cm(8インチ)以下とだけ規定され、建造数などの規定はされなかった。そのため、各国とも建造に制限の無い1万トン以下の戦闘艦の建造に傾注した。

その後、1930年のロンドン海軍軍縮会議で、1万トン以下の艦についても排水量、備砲の口径、建造数、建造時期などが細かく制限された。巡洋艦については排水量1,850トンを超えて1万トン以下、備砲が15.5cm(6.1インチ)以上20.3cm(8インチ)砲以下の備砲を持つ艦をカテゴリーA、15.5cm砲以下の艦をカテゴリーBと、2種類に分類された。この時代は巡洋艦の偵察機能として水上機の搭載が重要視されており、ほとんどの艦がカタパルトを装備していた。ワシントン条約下の巡洋艦の代表例を示す。

イギリス軽巡洋艦 サウサンプトン級 (1937年、9,100t:15.2cm砲12門、53.3cm魚雷発射管6門、水上機3機)
アメリカ重巡洋艦 ノーザンプトン級 (1930年、9,006t:20.3cm砲9門、53.3cm魚雷発射管6門、水上機4機)
日本重巡洋艦 妙高型 (1929年、10,000t:20cm砲10門、61cm魚雷発射管12門,水上機2機)
フランス軽巡洋艦 ラ・ガリソニエール級(1935年、7,600t:15.2cm砲9門、55cm魚雷発射管連装2基4門、水上機4機)
イタリア重巡洋艦 ザラ級(1931年、11,870t:20.3cm砲8門、水上機2機)
また、ワシントン条約に加盟していない国は独自の理論で条約に囚われない艦を整備した。

オランダ軽巡洋艦 デ・ロイテル
ソ連重巡洋艦 キーロフ級(軽巡洋艦として建造)
スペイン重巡洋艦 カナリアス
スウェーデン軽巡洋艦 ゴトランド

第二次世界大戦
この時代 列強は巡洋艦を準主力艦とみなし、他の国々では海軍力の主力と見なされ、積極的に建造された。各国の巡洋艦保有数を列記する。表示はワシントン条約時代+条約明け-大戦中の完成艦数。同一クラスで大戦中に完成した艦があるクラスは戦後完成艦を含む。日米の大戦中の建艦数を比較すると、両国の国力の差が大きかったことが分かる。

国名 ワシントン条約時代 条約明け-大戦中の完成艦
イギリス 重巡18と軽巡58 + 軽巡24
アメリカ 重巡18と軽巡19 + 重巡14と軽巡40(大巡洋艦アラスカ級2隻を含まず)→アラスカ級は巡洋戦艦参照
日本 重巡12と軽巡21 + 重巡2と軽巡7、ほかに軽巡→重巡転換4
イタリア 重巡7と軽巡12 + 軽巡4
フランス 重巡7と軽巡12
ドイツ 重巡3と軽巡6
オランダ 軽巡5
スペイン 重巡2と軽巡4
ソ連 重巡7
アルゼンチン 軽巡3
中華民国 軽巡2→寧海級巡洋艦
スウェーデン 軽巡1
タイム ハンド トリニタ テンシル ファクトリー ふたつ星 はなの舞 ブロイラー スペクタ だっと ラマズダ キーバス 後ろゆび ドラッ エンド もくと トップラ ヒップ トルテ ドーパミン ボケ インタ ファミ テレポ ぱらぴーの タリカ ピューレ カピタン セブサー 春一輪 レイガイド ポット レグルス ロビイ 秘密の花園 コバノ リンワキ ソフトサーチ ムチャコジ オルガン ゲッツ スプーン ランタ しゅいろ うしべに パンパ ブザー ロカール ランダム サブアリ

戦時中
第二次世界大戦では、巡洋艦の最大の敵は航空母艦や陸上基地から飛来する飛行機となった。米英では対空砲を主装備とする防空巡洋艦が多数建造され、日英では旧式化した巡洋艦を防空巡洋艦に改造した。更に大戦中に建造された軽巡洋艦や重巡洋艦は対空兵装を強化した影響で大型化していった。

米では戦前に建造した重巡洋艦への魚雷搭載が廃止され、新造の巡洋艦には最初から装備されなくなった。米英とも艦隊の眼として使用されてきた水上機の機能は基地航空隊や航空母艦に任せるものとして水上機設備を順次撤去した。ドイツは海軍再建途上で戦争に突入した為十分な海上戦力を有しておらず、大戦初期には航続力の大きな商船に15cm砲を搭載して仮装巡洋艦に仕立てて通商破壊戦に使用した。日本は米とは逆に魚雷戦を重視した。ミッドウェー海戦で損傷した重巡洋艦最上の修理に際し、後部砲塔を撤去しここに水上機搭載設備を設けた航空巡洋艦に改装して航空索敵能力の強化を図った。

米防空巡洋艦 アトランタ級 (1941年、6,718t:12.7cm連装両用砲8基、53.3cm魚雷発射管4連装2基8門)
日本防空巡洋艦 五十鈴 (1922年竣工44年改造、6,000t:12.7cm連装高角砲3基、61cm魚雷発射管4連装2基8門)
日本軽巡洋艦 阿賀野型 (1940年竣工、6,652t : 15.2cm砲6門、61cm魚雷発射管4連装2基8門)
米重巡洋艦 ボルチモア級 (1943年、14,472t:20.3cm砲9門、水上機4機)
米軽巡洋艦 クリーブランド級 (1942年、11,744t:15.2cm砲12門、水上機4機)
独仮装巡洋艦 アトランティス (1937年商船として竣工40年改造、7,862t:15.2cm砲6門、53.3cm水上魚雷発射管4門、水上機2機)
日本航空巡洋艦 最上 (12,300t:20.3cm砲6門、61cm魚雷発射管3連装4基12門、水上機11機)

2009年02月18日

ギャルゲー

ギャルゲーとは、「ギャルゲーム」(Gal game)の略であり、主に魅力的な女性が登場することを売り物とするタイプのコンピュータゲームの俗称。類似の概念に美少女ゲーム、萌えゲームがある。
百番 セアニア シベリ チョップ キャッチ キラー マンダラ 宙船日本 マスカット ドリネ チェンバロ グラス ベッド スワット てる坊主 つりばな ナット ソース ギャザー チャチャ フォー ソフト 楽隊 パラチフス トゥル キング チープ ルリマツリ ブルゴー デポプロ トロピカル キト日本 コンアレー 台風対策 アイライナ ヒズボラ ルーフ タイム マシュマロ レギュラ ウラン ヨーヨー ファ ナステ ダンス たるみず グロッサム スイム はまます よどえ

「ギャルゲー」はしばしば「エロゲー(アダルトゲーム)」と同列のものとして扱われがちだが、大まかな違いとして、

エロゲー
性描写を含むため、条例およびコンピュータソフトウェア倫理機構(ソフ倫)やコンテンツ・ソフト協同組合(CSA、旧・メディア倫理協会)によるレイティング審査の結果に基づき、規制の対象となっている(ソフ倫による指定ではR指定=15禁もあり、こちらも年齢の下限による購入の規制があることから、含めることが多い。CSA規定にもR-15は存在するがゲームにおける適用例はほとんど無い)。
ゲームやジャンルによっては性描写に加え、残虐な殺傷や犯罪(特に強姦や強制わいせつなどの性犯罪、および犯罪(者)を肯定する表現など)などの描写が付随するものもある。
また「エロゲー」といった場合は「ギャルゲー」と違い攻略対象が女性である作品に限らず、男性同士の同性愛を描写する作品(ボーイズラブゲーム)なども含まれる。
攻略の対象となる人物はソフ倫の倫理規定(禁止事項 6項「年齢制限について」より)などにより、「性交渉を行う人物は全て18歳以上である」または「本ゲームにおいて18歳未満のキャラは登場しない」という趣旨のルールを敷いて強調[1]し、または年齢を特定できる描写をしないとされている。
そのため、攻略対象が学生である場合、年齢に関する言及を避けるよう「〜高校 → 〜学園・〜大学[2]」「女子"高"生 → 女子"校"生」とするなど、わざとあやふやな表現に置き換えられることが多い(フリーター、教師、看護師、OLなどの職業に就いている設定の場合、ほぼ全員が18歳〜20代以上と認識されるため、あまり言及されない)。
但し、CSAの倫理規定では登場人物の年齢の制限がないため、CSAによる審査を受けたものについてはこの限りではない。
ギャルゲー
パソコンゲームの場合「戦巫女」(アリスソフト)や「CLANNAD」(Key)のようにソフ倫の審査により「一般ソフト作品」として認定されたソフトを指すが、現在のところコンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)による審査を受けて発売された実績がない(CEROに比べると便宜上の全年齢対象として認定する基準が緩いことや、全作品で同機構の審査を受けなければならないため)。
上記のエロゲーと異なり、攻略の対象となる人物は中学生〜高校生に設定されていることもあり、ゲームによっては中学校・高等学校の課程にあることを特定できる、明確な描写や設定がなされていることもある。
家庭用の場合はほとんどのメーカーがCEROへ審査を依頼し、その結果に基づいて対象年齢とコンテンツアイコンを表示している。アイコン「恋愛・セクシャル」が表示される場合、ほとんどが「B 12才以上対象」・「C 15才以上対象」・「D 17才以上対象」の区分に指定されているが、「Z 18才以上のみ対象」とは異なり購入の規制対象とはならない。
CEROの審査基準では直接的な性描写を明示的に禁止しているため性表現を理由に「Z」区分とされることはまず無く、「Z」区分を受ける場合でも暴力表現を理由とする場合がほとんどである。
以上のような違いがあるが、一般的なギャルゲーの定義としては、後者のように購入の規制がなされない場合の方が多い。

ギャルゲーという区分
ギャルゲーと非ギャルゲーの差を明確に区別するのは、他の俗称ジャンルであるクソゲーなどと同様難しく、各プレイヤーの主観に拠る所が大だが、大まかな目安としてゲーム中に登場する女性キャラクターの有無によってゲームの内容・意味がある程度変化する事があげられる。しかし、キャラクター性を排除しても十分プレイに堪えうるようなゲーム性の高い作品も存在するため、やはりギャルゲーというジャンルは便宜上の区分として使われる事が多い。

なお、ギャルゲーの上位区分としてはキャラゲーが挙げられる。ギャルゲーはゲーム制作元のオリジナルキャラクターを使う事も少なくないが、キャラゲーは一般に流通している漫画やアニメといった作品のキャラクターを使用している点が異なる。しかし、元々俗称による区分でもあるため、やはり、この境界は曖昧である。

ギャルゲーの歴史
最初にギャルゲーと呼称されたゲームは、1986年発売の「夢幻戦士ヴァリス」(日本テレネット)ではないかとされる。ヴァリスと同時期には「アテナ」(SNK)や「マドゥーラの翼」(サン電子)を始め主人公のキャラクターを子供向けのゲームとしては露出度の高い衣装(いわゆるビキニアーマーなど)を纏っている少女に設定したアクションゲームが見られるが、これらの作品は主人公を男性やロボットなどに置き換えても基本的なゲーム性が変化しないと思われるものがほとんどであった。また、この種のゲームは難度が異常に高かったり、ゲームバランスの悪いものも多く、1980年代広汎においては「ギャルゲー」は「少女キャラクターの可愛らしさに寄りかかった、クソゲーの一種」と認識されるケースが多かった。

「ギャルゲー」と言う単語のゲーム雑誌で確認されている最古の使用例は『ファミコン通信』1992年3月27日号の特集記事である。もっとも、この特集で取り上げられているのは「ヴァリス」を始め横スクロールのアクションゲームがメインであった。但し、パソコンゲームではこの特集とほぼ同時期に「プリンセスメーカー」(ガイナックス)や「卒業 〜Graduation〜」(ジャパンホームビデオ)に代表される育成シミュレーションが登場している。この両タイトルは後年、PCエンジンに移植され同ハード及び後継ハード・PC-FXの方向性を決定づけることとなった。

1994年には、男性向け一般恋愛シミュレーションゲームの先駆けとなる「ときめきメモリアル」(コナミ)が発売される。「ときメモ」は大きな話題を呼び、このジャンルが一定の地位を確立するきっかけとなった。これに伴い、魅力的な女性が登場するゲームは恋愛シミュレーションゲームであることが多くなったことから、ギャルゲーという用語はこのジャンルのゲームを指すものとして用いられるようになった。1998年の「センチメンタルグラフティ」(NECインターチャネル)なども同様の形式で作られ、人気を博した。

2007年現在の状況では、アドベンチャーゲームやシミュレーションゲームのようなものが多いが、その他のジャンルでも「ギャルゲー」と呼ばれる作品は存在する。また「FFX-2」(スクウェア・エニックス)や「蒼い海のトリスティア」(工画堂スタジオ)のように露出度の高いキャラクターが目立つ作品も、ゲームの内容とは関係無く「ギャルゲー」と認識されることは多い。ギャルゲーファン以外からも支持されるようなストーリー性の高い作品がある一方で、あくまで「魅力的な女性が登場することが売り物」だけの、設定やストーリーに少々無理がある作品も存在する。

ギャルゲーとアダルトゲーム
1992年の「同級生」(エルフ)以降、アダルトゲームにおいても擬似恋愛を扱う作品が主流となったが、これらの作品は従来のアダルトゲームに比べ性描写が少なく、ゲームの中身の大部分は女性キャラクターとの恋愛関係に至るまでの過程を描いたものであった。このことは、これらのアダルトゲーム作品においては性描写を削除してもゲームバランスを大きく損なわないことを意味しており、このためアダルトゲーム原作のコンシューマーゲーム移植されるギャルゲーが増加することとなった。この傾向は性描写が完全に従となり読者の感動を主目的とする、いわゆる泣きゲーが勢力を増すにつれてさらに顕著なものとなっている。

また、ベクターが運営するアダルトゲーム中心の情報サイトが「Galge.com」(ギャルゲ・ドット・コム)の名称を使用するなど、冒頭にもあるようにギャルゲーとアダルトゲームの区別はますます曖昧なものになりつつある。

女性キャラの典型的属性
1人の男性キャラ(多くの場合、主人公のこと)に複数の女性キャラが特別な感情を抱く事から、ハーレムアニメにおけるヒロインの典型的属性とほぼ一致する場合が多い。

この部分は「ユーザーの多様な嗜好に合わせている」と言いたい所だが、実質的には漫画などの作品で利用されているストックキャラクターのパターンを、コンピュータゲームに応用したに過ぎない。特にオタクなどといった購買力に余裕のあるユーザーにアピールする上で、著名なイラストレーターや漫画家に、キャラクターデザインを依頼する傾向も見られる。

2009年01月28日

黒井城の戦い

黒井城の戦い(くろいじょうのたたかい)は、織田信長の命をうけた明智光秀等が天正3年(1575年)と天正7年(1579年)の二度に渡って丹波国征討を目的に、赤井氏の堅城黒井城への攻城戦が行われた。

元亀元年(1570年)3月、上洛していた織田信長に赤井直正(この時は改姓し荻野直正と名乗っていた)と赤井忠家(赤井直正の兄赤井家清は亡くなり、赤井忠家は赤井家清の嫡男)は拝謁し織田方につくことを約束した。織田信長はこれに対して氷上郡、天田郡、何鹿郡の丹波奥三郡を安堵した。これで丹波国は安定するかに思えたが翌元亀2年(1571年)11月、
粉雪 きくらげ せつごう ラックタイ ドンパ クーラント リコピ サイクル チャドル ドライブス ダウWEB ブイゾーン プレ ドライ ネック ヒーリング ビーチ プードル ルレット スクレ ジーディ ペチュニア イーゼル アブラカ センター ゆり根 アカシジミ クール プロシー キッコ スリー ラケナリ さびいろ しのだけ ハイ ブレー セリーグ タブロー オクラ ナビスト てくぼ ファンネル バイド 光の街 ジャロ ユーロ イギリス ストーリ 気合だ メンズリブ

此隅山城(出石町) 城主 山名祐豊
夜久野城(山東町) 城主 磯部豊直
らが、氷上郡にあった足立氏の山垣城(青垣町)を攻城した。黒井城の赤井直正と後屋城の赤井忠家はこの動きに即応し、山垣城に救援に向かい山名祐豊、磯部豊直両軍を撃退した。その後勢いにのって、但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、次は山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫った。

このような状況になり山名祐豊は織田信長に援軍を要請したが、織田信長は当時信長包囲網にあい、援軍を出せる余裕はなかったが、越前一向一揆が一段落した天正3年(1575年)、明智光秀を総大将に丹波国征討戦に乗り出すことになる。織田信長としてみれば、毛利元春を討つ前に京に近い丹波国を平定し、背後の憂いを削ぐのが目的だったと推察されている。

戦いの状況
明智光秀画像明智光秀は越前国より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣したと思われている。この時赤井直正は竹田城にいたが、明智光秀の動きを察知し黒井城に帰城、戦闘態勢を整えた。

織田信長は、同年10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいた。

明智光秀は黒井城の周囲に2、3箇所の砦を築き、圧倒的兵力で黒井城を包囲した。この時の状況を『八木豊信書状』によると「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と観測を述べ、スムーズに戦がすすんでいた。戦況は明智光秀に有利であり、攻城戦は2ヵ月以上となった翌天正4年(1576年)1月15日、波多野秀治軍が3方向から攻め立て明智光秀軍は総退却となった。「赤井の呼び込み戦法」と言われている。

この戦いは、波多野秀治軍の裏切りにより勝敗がついたが、呼び込みという言い方は適切ではない。なぜこのような言い方が伝わったか『郷土の城ものがたり』では、織田信長の朱印状の返事をどのようするか、丹波国の国人衆が集まり協議を行い「赤井直正のみが織田信長の意向に従わない、他の国人衆は織田信長に従うので赤井直正を討ち滅ぼしてほしい」という偽りの返事をしたのではないかと解説している。『籾井家日記』によると、「赤井直正と波多野秀治の間には密約があり予定の行動であった」という記載があるが、『戦国合戦大辞典』によると「その記述は信用できるものではない」としている。『兵庫県の不思議事典』によると「赤井、波多野両家は姻戚関係にあり、事前に密約があった可能性がささやかれてはいるものの、はっきりした記録はない」と記載している。

徳川家康像
長宗我部元親像
『甲陽軍鑑』によると「名高キ武士」として、

徳川家康
長宗我部元親
赤井直正
と並び紹介されているほどの武将である。赤井直正には、織田信長を丹波国に呼び込んで討ち取る計略があったのではという指摘もあるが、それらを示唆できる資料も確認されていない。

天正4年(1576年)1月15日、明智光秀軍は黒井城の前方(南側)にあたる「平松」という場所に移動し、

黒井城の東側 大路城 城主 波多野秀香軍
黒井城の西側 霧山城 城主 波多野秀尚軍
黒井城の北側 八上城 城主 波多野秀治軍
と黒井城の四方に陣取り、いよいよ黒井城を攻め立てるべく準備が整ったところに、三尾城城主赤井幸家(赤井直正の弟)が明智光秀軍に襲い掛かり、これに即応して波多野秀香軍と波多野秀尚軍が西、東より挟撃した。明智光秀軍は体制を整えるべく一旦柏原方面に退却しようとしたが、そこには高見城城主赤井忠家が待ち伏せており、明智光秀軍は黒井川に追いやられ大敗した。

このような戦いの状況から、いつの時点で密約が成立したかは定かではないが、なんらかの密約らしきものがあったのでないかと思われている。

戦後の状況
大敗した明智光秀軍は京に逃げ込み、その後坂本城に帰城した。先の戦いから1ヶ月後、再び戦の準備を整え同年2月18日に坂本城を出陣し丹波国に入国したが、この時はほとんど戦わず短期間で引き揚げてしまった。

波多野三兄弟による裏切で大敗し、自らの命も危なかった明智光秀の思いは、その後の八上城の攻城と波多野三兄弟の浄巌院慈恩寺の磔とも関係していると言われている。

一方、この戦いで織田信長軍に土をつけたことで赤井直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となっていく。

第二次黒井城の戦いまでの経緯
再び明智光秀が黒井城を攻城するまで約1年半の月日が流れる。

この間明智光秀は畿内を転戦する。石山本願寺攻め、加賀攻め、信貴山城の戦いなど明智光秀軍は「遊撃軍団」だったと思われる。

赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていた。足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者、跡部大炊助や長坂長閑斎、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っている。

<反信長包囲網>

足利義昭画像
吉川元春像
武田勝頼像
顕如画像

特に石山本願寺からは、織田信長の動向、その対抗策、返信の要請など緊密に連絡が行き来されていたと思われている。また、赤井直正、赤井幸家兄弟は、吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。

織田信長からの朱印状
織田信長朱印状/兵庫県立歴史博物館蔵この朱印状は4月13日、織田信長から矢野弥三郎に宛てた朱印状で、内容は「赤井忠家、赤井直正の罪を「赦免」(ゆるし)し、去年以来より織田方に「一味」した者の身上は異論なく扱い、「当知行」も安堵してするので、明智光秀と相談して益々忠節を尽くすよう」とある。矢野弥三郎はどのような人物か不明であるが丹波国の国人の一人ではないかと思われている。朱印状には4月13日とのみ書かれており年号については不明であるが、「明智光秀と相談して」という部分から推察して第一次黒井城の戦い-第二次黒井城の戦いの間、天正3年(1575年)-天正7年(1579年)と思われている。このように織田信長も第二次黒井城の戦いを前に計略を廻らしていた。

第二次黒井城の戦い
第二次黒井城の戦い

黒井城と出砦の分布図(北側)
戦争:攻城戦
年月日:天正7年(1579年)7月初旬 - 8月9日
場所:黒井城
結果:織田軍の勝利
交戦勢力
織田軍 赤井軍
指揮官
明智光秀
細川藤孝
細川忠興
羽柴秀長
明智秀満 赤井幸家
戦力
約10,000 約1,800
損害
不明 不明

開戦までの経緯
細川幽斎像吉川元春援軍が到着する前に、明智光秀軍は信貴山城の戦いが終了する天正5年(1577年)10月、第二次丹波国征討戦を開始する。まず明智光秀軍は、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城 (丹波国)を落城させた。この二城を丹波国征討戦の本拠地とした。第一次丹波国征討戦と違い、明智光秀軍は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく個別撃破戦略をとった。織田信長は細川藤孝、細川忠興親子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させる。

この時に赤井方では、主将である赤井直正が病没するという一大事件がおきる。同年3月9日のことであった。一説には、「首切り疔(化膿してできる腫れ物)」の病ではなかったかと言われている。数十年に亘り実質的な赤井氏の指導者であった赤井直正の死去は丹波国に大きな影響を与えた。一旦は明智光秀を裏切った丹波国の国人衆は、二城が陥落し、赤井直正が死去、八上城を攻囲するのを見ると再び明智光秀に降っていった。赤井家では赤井直正の弟の赤井幸家が後見となり統率することになる。

更に織田信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、

山垣城
細工所城
栗住野城
田巻城
岩屋城
霧山城
等の八上城、黒井城の支城を次々と落城していった。明智光秀は攻囲中に、軍勢を八上城に置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処している。

八上城がある高城山の空中写真翌天正7年(1579年)3月に八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城する。各支城を落城し、金山城の効果を出始めてきだしたのか、

同年5月5日 氷上城 落城
極度の飢餓状態になった八上城に対して、『信長公記』によると「調略をもって」という記載がある事から、八上城兵に対して働きかけがあったと思われている。

同年6月1日 八上城 落城
捕えられた波多野三兄弟は、明智光秀護送の元、洛中を引き回され安土城に出向き織田信長の命により磔になる。明智光秀は同年7月再び丹波国に入国し、最後の城、黒井城の攻城にとりかかる。

戦いの状況
赤井幸家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、波多野家からの援軍もなく黒井城の支城もほとんどが落城してしまい、兵力も激減していたと思われる。

戦いは8月9日早朝開始された。明智光秀軍は第一次黒井城の戦いの反省をいかし慎重に攻め込んだ。仮想陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いにのって追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりした。そんな中、明智光秀軍の四方田政孝隊が、手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けた。明智光秀軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず赤井幸家軍も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走する。この時の状況を『信長公記』では、

“ 八月九日赤井悪右衛門楯籠り候黒井へ取懸け、推し詰め候ところ、人数をだし候。則ち、口童(口+童)と付け入るに、外くるはまで込み入り、随分の者十余人討ち取るところ、種々降参候て、退出

と記載されている。

黒井落城の図/絵本太功記
赤井悪右衛門討死の図/絵本太功記

戦後の状況
この戦いで事実上、丹波国征討戦は終了した。

明智光秀書状/安土城考古博物館所蔵
この書状は黒井城落城15日後の8月24日もので、戦勝祈願した京都の威徳院へ送ったものになる。内容は、勝利することができたので約束どおり200石を奉納すると伝えている。また、文中には赤井忠家の居城であったと思われている高見城がまもなく落城し、一両日中には和田方面に進軍すると報じている。神仏を重んじ生真面目な明智光秀の性格を伺わせる書状となっている。書状の中段に「高見之事、執詰陣候、」という記載が見受けられる。

上記書状のように若干の反対勢力との小競り合いや和睦などを片付けて、明智光秀、細川藤孝らは同年10月24日安土城に凱旋し、織田信長に拝謁し丹波国が平定できたことを報告する。

その翌天正7年(1579年)織田信長は丹波国を明智光秀に、丹後国を細川藤孝に与えることになった。

第一次黒井城の戦いで、全国的に赤井直正の「丹波の赤鬼」で有名になるが、この赤鬼の赤は赤井直正と関係があると思われているが、『郷土の城ものがたり』はそれだけでなく、この頃より揃い鎧を着けて戦うことが始まっているので、おそらく赤井直正軍も揃いの赤い鎧を着用していたのではないかと推察している。
羽柴秀吉の家臣、龍野城の城主脇坂安治が、天正6年(1578年)1月病床にあった赤井直正を下館を訪ね、開城降伏を進言したが、この説得には応じなかった。しかしその好意に謝して「貂(てん)の皮」を与えた。この時の記述が司馬遼太郎の「貂の皮」という歴史小説に記載されている。この貂の皮は龍野神社の宝物となっている。

2009年01月20日

公的機関から与えられる研究費

公的機関から与えられる研究費は、用途は細かく限定されており、研究費を名目外の用途に使用した場合も不正行為である。また、研究費を不正な論文などを根拠として請求した場合は、単なる科学内部の不正行為としては処理されず、法律に違反した犯罪行為として厳正に処罰される可能性がある。

対策と問題点
論文は追試により検証できる。しかし、何年もの研究成果であれば、再現するのにその分多大な費用と時間がかかる。

他のルールを持ち込めると錯覚することの危険性
例えば、特許の世界では、学術性とは関係がなく、金銭・利益優先で、「架空のデータ」を用いた出願などの問題行為でも野放図にまかり通ってしまっている現実がある。これは特許審査がオフィサーである特許審査官による書類審査によるためで、査読や追試など科学的手法をかならずしも前提としていないことによる。新規の発明や発見の実在性や記述の科学的な正確性についての検証は、利害関係をともなう第三者が特許無効の審判を提起することで初めて実体的な検証が行われるという処理を採用する。出願する上で重要となるのは、多くの観点からの請求項を含む特許請求の範囲や、上位概念的な請求項から実施例に対応した請求項まで多段階にわたる特許請求の範囲を、出願時に作成することである。審査上の「進歩性」の判断ラインの見極めが重要であり、幅の広いクレームを作成することによって、より有効な特許を取得することができる。また技術的な詳細の機微(ノウハウ)を可能な限り隠匿することで追従者の追跡を遅らせる意図から、利用可能性のある要素すべてを網羅するケースが多く(開放クレーム)、この場合あきらかに科学的手法を逸脱した記述の体裁が積極的に採用される[3]。特許の世界を経験した者が、万一であれ、そのような行為が科学や学術論文の執筆の領域でも許されると想像するのは大きな間違いである。特許の世界では、科学的に無意味な記述が特許として成立しても精々求められるコストは毎年の登録料くらいであるが、科学の世界では科学の世界なりの処分が下る。

不正行為の具体例(人物・事件名)
この記事や節には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。Wikipedia:独自研究は載せないを確認の上、情報、解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください(テンプレート)。

エリアス・アルサブティ
マーク・スペクター
ジョン・ロング
ウィリアム・サマーリン
ヴィジェイ・ソーマン
ヘンドリック・シェーン
多比良和誠
松本和子
下村伊一郎
黄禹錫
旧石器捏造事件
カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

脚注
^ Mounir Errami & Harold Garner, "A tale of two citations", Nature 451, 397-399 (2008) DOI: 10.1038/451397a
^ 以上ストルチコフの記述は以下の書籍より:『イグ・ノーベル賞』、マーク・エーブラハムズ。阪急コミュニケーションズ。
^ 例えばある素材を焼成するのにA元素にB元素をドーパントとして利用するばあい、B元素を隠匿する目的で同族元素を列挙したり、ドープ量の比率を0.1%?30.0%などと実態を可能な限り把握されない工夫がなされる

関連文献
酒井シヅ, 三浦雅弘, アレクサンダー・コーン 『科学の罠―過失と不正の科学史』工作舎, 1990, ISBN 4875021682
山崎 茂明 『科学者の不正行為―捏造・偽造・盗用』丸善, 2002, ISBN 4621070215
W.ブロード, N.ウェイド 『背信の科学者たち』牧野賢治(訳)化学同人, 1988 ISBN 475980160X
W.ブロード, N.ウェイド 『背信の科学者たち―論文捏造、データ改ざんはなぜ繰り返されるのか』牧野賢治(訳)講談社〈ブルーバックス〉, 2006 ISBN 4062575353
前掲書の改訂版。新書判化に際して旧版より幾分割愛されたものの、訳者によって原著刊行後のミスコンダクト(不正行為)の事例がフォローされている。
李成柱 『国家を騙した科学者―「ES細胞」論文捏造事件の真相』牧野出版, 2006, ISBN 4895000958
村松秀 『論文捏造』中央公論新社〈中公新書ラクレ〉, 2006, ISBN 4121502264